骨石、愛のエッセイ
「笠木忍」という女子
骨石(2004年03月20日)
この「笠木忍」という名で素朴な容貌の女子がなにゆえこのような痴態を演じ、それを一部始終記録に残さなければならなかったのか。
陰毛も薄くやりなれてはいないかのような清楚な女陰を舐められくじられさらに陰茎をくわえしゃぶりそして挿入される姿を、一体何人の者が見たであろう。
己の性行為を撮影され、それは未来永劫残りつづける。恥ずかしい部分も陰毛も、女陰と男根が結合した個所も鮮明に業務用ビデオカメラは写し込む。「笠木忍」はこのことについて、未来への遺恨も悔いもなくこれから長い生を行き続けられるというのですか。
あなたの旦那さんは、あなたが何人もの男と激しい行為を繰り返したことについて何のとがめもないのですか。
この人は「異常者」であろうか。
そうでなく、こうした所業は今にあっては「普通者」であろうか。
然り。
おそらく今この瞬間にも、何万人という女子の淫らな肢体が全日本いたるところのモニタに映し出されている。
若く美しい体を満開に開き、性的行為の一部始終を無数の第三者に向けて発表している。
その姿にためらいはない。あっても演技である。
個人的にはほとんど知らぬ男優に対して白い体をさらけ出して恥じることもない。
「AV女優」であるから性戯は演技である。
しかし明治時代には考えられなかった事態である。
否、明治時代にもあったかも知れぬ。
それは豪壮な西洋館の中で、財閥の主人や御曹司らによって行われていたのだ。
ダウンサイジングによってこうした痴戯は民衆にも愉しめるものになった。
一部の富裕者に独占されていたものが、貧しき大衆にも享受できるようになったのは喜ばしい。
「笠木忍」が何人の男優や恋人と性の交わりをしたか知れぬ。
その女陰を何万回肉棒が往復したか数え切れぬ。
「笠木忍」を見る者にとっては
見るたびごとの彼女の痴態にしか注目しない。
如何にあえぎ、如何に受け入れ、如何に甘受し、如何に果てたか。
その痴態が「笠木忍」のすべてだ。
多くの者はAVの演技と新劇の演技を豁然と分ける。
新劇は上等でAVは下等であると。
新劇は高級な芸術でAVは最下等の大衆娯楽であると。
一体そのような分け方をすることが可能であろうか。否不可能である、何故なら
新劇もAVも同様に真面目な姿勢で観賞する者はおそらく一人もいまいからである。新劇を語る者はAVを語らず、AVを評論する者は新劇評を依頼されることはない。
愛撫に対して過剰に悶え、過剰に反応し、過剰に声を出すのは、それが鑑賞者の情欲に訴え、鑑賞者の手が己が陰茎に伸び、擦り、射精に至らせるのを目的とするからである。
もし女が何の演技もせずただ性交をすることだけで事足れりという姿勢で撮影されたものはAVとして成り立つか。
否である。
女が男優の異常に激しい腰使いに通常ではおそらくないと思われるほどの喘ぎ声を出して高まりの演技をし、男優もまた大きな叫びを上げることによって射精の瞬間を告知しながら巧みに射精を行うことで、鑑賞者もそれに合わせて自慰による射精で快感を得るのである。
このような素晴らしい実用物が最下等であるなどと言えるのであろうか。例えば、市役所の玄関先に鎮座している彫刻は上等だが、市指定のゴミ袋は下等であるというような愚かなことである。無論、AVがゴミ袋であると言うのではなく、職人の持つ鉋や鋸、包丁なども同様の価値を持つ。
人は己の価値観を壊されるのを忌み嫌う。自分の存在自体を否定されるかのように恐れる。そのような存在は消滅すればよい。
AVに出演する女もまた忌み嫌う。自分の恋人や配偶者にはしたくないと思う。心配しなくても良い、笠木忍と人生の交差点で交差することなどないのである。笠木忍には笠木忍の配偶者がきちんと別に存在するのである。余計なことを考えずに自慰をすればよいのである。
笠木忍を自分と同様の生活者として見ようとするのは不遜なことである。彼女の来歴、両親兄弟親戚らの氏素性、初体験の年齢、相手の男の氏素性、そのときの仔細な状況、その後の経緯、現在までに経験した男の人数とそれぞれの詳細な状況、絶頂に達した時の感覚、AV出演の動機、AV出演は家族親戚は知っているかどうか、AVで性行為を行ったときの絶頂の有無、金銭欲の有無、預貯金額の多寡、所有財産の有無、果ては将来の抱負などと自分が聞かれても困ることばかりを頭に浮かべ、それらにまつわる不快な想像妄想のみを思い描くのはまったく愚の骨頂である。
今この瞬間に開かれている笠木忍の淫らな身体を見て自慰をすればよいのである。
それが「笠木忍」のためには一番良いのである。
GIFアニメーション 【2.6MB】

もろ見えGIFアニメーションをアップしようとしたがコワイので中止しました。
どこかにあるかも知れません。笠木忍