肖像
更新:2004年05月20日
昭和30年 1955年2月生。水瓶座。O型。
昭和42年 1967年(12歳)この数年前に見て感動を忘れ得なかったTVアニメ「鉄腕アトム」第1回のノベライゼーションをする。(最初の書き物。現存せず)
ここに至るまでの幼少期の最大の関心は上の「鉄腕アトム」に代表されるマンガの世界であった。小学生時代には紙に自分なりのマンガらしいものを描いて友人に配ったりしたこともあった。複写は出来ず部数分同じものを描いたのであった。
昭和44年 1969年(14歳)初恋。相手は中学の1年下の女子。当然ながら片思いに終わる。
この女子と性交渉する妄想を抱いて毎日オナニーに耽る。ということはなかった。関心は以後も長く星菫趣味にあって性的妄想はもっぱら夢に頼り夢精を好んだ。女子は畏怖し冒すべからざる存在であり生の肉体に対し性交渉は暴虐行為であるという観念から長い間脱することが出来なかった。しかし、後の大作「無見識な劣情」の主人公が最初に犯す少女はこの初恋の人をイメージした。これによって私の初恋は30年の時を経て成就したのである(笑)。
昭和45年 1970年(15歳)家族で大阪万博へ行く。
11月、日記を開始する。
12月、三島由紀夫の死。しかしこの前も後も三島はろくに読んだことがない。三島は非常に高尚であり、もっぱら五木寛之、安部公房を熱中して読んだ。
この十代中盤から芸術に目覚め、読書にふける。文学、美術、音楽、映画、演劇ほかあらゆる芸術ジャンルを志す。が、結果的に何一つものにならなかった。
昭和47年 1972年(17歳)初めてガールフレンドらしきものができる。部活(吹奏楽部)の2年後輩であった。
しかしこの彼女とはキスもせず乳も揉まずクンニリングスもフェラチオもなく文学や詩の話のみで終わるという信じがたい交際であった。文学談義で6時間電話で話した込んだことさえあったとは、遠い時代であったが、かつて確かにこのような青春があったのである。後悔はしないでもないが自慢も出来ない。この女子をモデルにした作品は意外にない。もちろんこの女子さえその後結婚し子供も産んだというので私の性の妄想の餌食となってもおかしくないのであるがまったくその気にならない。一度だけこの女子の家に遊びに行ったことがある。その時、家には両親もいず私と同年の兄もいなかった。彼女の部屋で話しだけして帰った。まったく不思議な時代であった。否、時代ではなく私が不思議であった。考えられるのは、その頃の私は、肉体も精神も遅れていたのである。
この前後、ある同級生が高校を退学した。彼は聞くところによると強姦未遂を起こしたそうだ。挿入の前に射精してしまって未遂に終わったらしい。そんな話を聞いても私はほとんど欲情することがなかった。
繰り返すが私は本当に好きな女子とは性交渉を持ちたくない、持ってはいけないというとんでもない考えもあったためにずいぶん長い回り道をしたのだと思う。回り道をして正しい道に戻るならいいのではないかと思うが、戻ったときには肝心の体力が減退していては何にもならない。
子供の頃に家が貧しくて読みたい本が読めなかった人が、社会に出てしゃかりきに働いて金を溜め、中年になってようやく余裕が出てさあ思い切り本を読むぞと思ったら、もはや読書をする意欲も何もなくなっていて、結局何も読めなかった、無駄な人生だったと嘆いたという話がある。それに似ている。
一方で骨石は日記に性的妄想を書きなぐっては墨塗りを繰り返していた形跡がある。(→墨塗りの例)
女子を犯したいと願望しながらそれを抑止しようとする自分がいた。犯すのは妄想の中の女子であり、現実に生きる生身の女子ではなかった。思い返せば、愛しているなら犯しても良かったのである。合意の上の犯しは犯しでなく愛の行為であり、許されるものである。当時の社会状況を考えても骨石の考えは遅れていた。
昭和50年 1975年(20歳)社会に出る。仕事は面白かったが条件は悪かった。
以後、一人の恋人もなく、
連日連夜労働の中で片思いと喫煙と飲酒とオナニズムと創作にふける(自嘲笑)。しかし創作を完成させ発表をしたことは皆無。今は残っていない映画シナリオ「悶絶・夜の痴女」(1977)が、あるシナリオコンテストで第1次選考に残ったことがある程度。映画ではルイス・ブニュエルの幻想的かつ文学性の高い作品にひかれる。
(2002年7月、「悶絶・夜の痴女」の原稿が発見された。暇になったらWORD文書化して公開する予定)この10年間はまったく自分の世界を見出すための歳月であったと考えたいが、その後自分の世界を見つけたかというと決してそんなことはない。人と違っていたのは、ひたすら本を読み映画を見、音楽を聴いていたことだ。古本屋回りや美術館へもよく行った。自慢といえばこの時代に見聞きしたことが少しは人より多かったために、博識だと思われて得意な気持ちになったことである。
昭和60年 1985年(30歳)最初にして最大の恋愛体験。
30歳にして恋人が出来、ようやく濃厚なキスもし乳も揉み吸いクンニリングスもフェラチオも一応経験した。が……
昭和63年 1988年(33歳)失恋。激しい自己憐憫と女嫌いに陥る。
これは非常に長く尾を引き、以後の人生を決めたような感がある。女子との性交渉を何度も回想しては自慰を繰り返す。
この体験を題材に、本格的に創作を始める。体験の中身は「停頓する色欲」にまとめた。ここには骨石と女との性交渉が段階を追って詳細に書き込まれている。恋愛当時、その日に行った行為を丹念に日記に残していたのである。また「肉欲の零度」(骨石短編官能小説8編セット内に所収)は二人が通勤電車内で行っていた痴漢遊戯などを強調して書いた。
相手の女子はその後も長く独身を続け男性経験も数多くこなした後(妄想混じりの憶測)、30歳直前に結婚したと聞く。おそらく口うるさい母親が、30になる前に結婚しろと連日言い募ったのであろう。この母親は無知蒙昧な田舎出の女で、娘は養子娘だからとくどいほど語り、私の家にはどんな財産があるか土地持ちなのかとかいうことまで聞きたがった(ちなみに私は土地持ちではない)。何しろ自分は地方出身で若いときは遊びまくり、結婚相談所で紹介された夫はこれといった魅力を感じたわけでもないが、そこそこの企業に勤めて収入は安定していよう、真面目そうなタイプで特に問題はないから結婚したという、頭脳は中空だが押さえるところは押さえるという生き方をしてきて娘には安逸を求めるという母親である。娘の結婚相手は大手企業(株)デンリー(仮名)勤務の年の離れたやもめ男で、数年後には子供も産み、さらに一戸建ても建てたというのでは私との恋愛を破棄したのもうなずける。養子娘だからどうのこうのといったことはなんだったのであろうか。無知の民の典型である。結婚後は家事と育児に追われ社会と断絶した生活にぜいたくな不満も持つが(これは後述することで知りえた真実)、特別な能力もなく夫の収入だけが生きる糧ゆえ、思考停止状態のまま食って寝て人の良かろう夫と何度も性交して腰を振り、喘ぎ声を上げ絶頂に達しては前歯を剥き出し、子育てをして歳月を経ても特段何の問題も不都合も生じない。かくて世は事もなしである。この女子のもうひとつのありえた生き方を描いたのが「流れ雲の彼方に」である。
さらに、後述するが2004年1月になって「日記レンタルさるさる」において日記「凡女美 汎女美」を開始し、その中でもこの女子に対する怨恨を書き連ねる。パソコンなどやってはいないだろうから間違いなく読んではいまいし読んだとしてもまったく本人とはわからないであろう。それくらいありきたりなことである。
この年、ワープロをはじめる。後のパソコンを中心としたデジタル機器生活の端緒といえることだが、完全に遊び感覚であった。短期間だがこのワープロで日記も書いたが手書きに戻った。正確なデジタル機器の始まりは後述するマッキントッシュ導入といえよう。
昭和64年(1989)1月7日(34歳)昭和から平成に変わる
平成元年(1989)2月9日(35歳)手塚治虫没。
平成6年(1994)2月(39歳)アップル・マッキントッシュQuadra840AVを購入。
パソコンについては、MS-DOS時代に会社の機器に少しだけ手を出したがすぐにやめた。こんなやり方では私のやりたいことをやるまでにははるかに長い時間が必要だった。
その後マッキントッシュが会社に入り、その姿にあこがれた。私も欲しいと毎日考えた。本業の機器は文字を扱うのみであった。これこそが私のやりたいことを実現できるものだと信じ、とうとう買ったのであった。本体、モニタ、プリンタで総額100万円強という高価な買い物であり、その後も関連機器、ソフトなどで出費が続き、今日に至る。
名器といわれた840AVであったが、音楽、動画などには手が出せなかった。もっぱらテキストと画像作品の制作に励んだ。まだ趣味の段階であったが、この期間にこつこつやっていたことが独立にも役立った。本業以外に何もしていなかった同僚らはその後ほとんど職を離れた。
平成8年(1996)3月(41歳)20年間勤務した会社を辞めて独立する。仕事は順調だったが酒量も増えた。
平成10年(1998)(43歳)膵臓炎で入院。3ヵ月後、退院の目処が立ったときに禁止されていた飲酒を試み、悪化して長引いてさらに3ヶ月、合計半年間の入院となる。
この半年間の入院中に、何と上記の女子から長い手紙が届いた。別の友人から私の入院を伝え聞いたらしい。手紙には見舞いの言葉と共に 専業主婦としての生活の単調さと社会から隔絶された暮らしのつまらなさを訴える文言が連ねてあった。以前、この友人と私が電話で話したときに、彼女はもう一人子供を産んだら働きに行きたいと話していたと言っていた。つまり、子供を二人産んだら嫁としての義務を果たしたから社会復帰をしたいということなのだろうが実に馬鹿である。パソコンも出来ず書く字も幼稚な低脳女がしゃらくさくも社会復帰だなどとはまったく社会を甘く見た考えである。かく弱い頭脳の女と私は一時期激しく愛し合い乳繰り合い絡み合っていたのだからやりきれない思いはいや増すのである。この恥知らずな手紙も ネットにさらしたいが今は控える。将来も控えつづけるであろう。万一、この女子と再会して何かが復活でもしたら(例えば性交渉などが)デジカメやビデオカメラ、パソコンなどを使ってやりたいことが山ほどあるが、 そんな機会の訪れようもないしもはや私の体力精力は当時のようではない、また女の性格も体も変わっているであろう。せぬが華である。
退院以後飲酒と油分を控える。
その後は病気の再発もなく仕事に精を出す。が、
平成12年(2000)(45歳)6月、激務の果てに解離性大動脈瘤で2ヶ月入院。2度目の大病。死ぬほどの痛みに耐えた。
入院中、日記に「The Fragments 愛の肉片」の元となる断片を記す。入院中にテレビで見続けた連続愛欲ドラマ(個別の作品名は秘す)の影響が大きい。
この病気以後塩分を控える。
オナニー続く。
上記「The Fragments 愛の肉片」の浄書をする。浄書は2年がかりになる。
オナニー続く。
商売が傾く(笑)。
オナニー続く。ズリネタは、スカイパーフェクTV!のPPVである。ほとんど同じ展開のAVが大量に流通している。こんなもので多くの男がかいているのだ。まったく工夫のない作ばかりで、よくこんなものを売っているなと慨嘆するが、買うものがいるから作るものがいて経済は回転する。
スカイパーフェクTV!のPPVにはレイプ物はほとんどない。危ないからであろう。レイプ風でも最後は女が喘ぎ声を出し絶頂に達して終わるので結果レイプになっていない。真に迫ったレイプ物は店に行かなければ見られないであろう。
平成14年(2002)(47歳)インターネット上で創作発表を始める。
3月、Win-MXに熱中する。AVも大量に見る。真に迫ったレイプ物も見る。制服の女子が自室で 若い男に全裸に剥かれて犯される有名な作も見る。最後まで女子が泣きわめき男の射精の寸前には「いや、出さないで!」と叫ぶという迫真作。本物のレイプではないかという議論もあったが、明らかに演出である。本物なら全裸になど剥かず下だけ剥いで挿入すればよいのである。また最初の挿入がバックからというのも不自然である。だが全体的に無情な空気がただよい、女子は終始叫び声を上げていて暴行現場の再現にほぼ成功している。惜しむらくはカメラアングルが一本調子で変化に欠け、陰部や結合部の近接撮影がないこと。逆にそれが臨場感を感じさせるが、カット変わりも適宜行われているので、もう少しアップカットが欲しかった。例えば(初めての)挿入の瞬間は局部のアップから入れたかった。射精後は、女陰から流れ出る精液まで映して終わりにしたい。そうした細部がないということは、やはりこの作品は本物ではなく中途半端に演出・編集された擬似行為といっていい。
MXは自宅と勤務先で2ヶ月間毎日熱中して、仕事に支障があったほどだったが、人にはほとんど知られなかった。
4月、MXのWPNPサーバ経由で作品ファイルを公開する。つまりこの時点で権利関係をすべて放棄したも同然であるが放棄したつもりはない。しかし創作者としてこういうやり方はどうかと思われたがやってしまったものはしょうがない。だが1ヶ月ほど経っても当の作品のダウンロードは数えるほどであり、大半は客寄せ用のエロもの需要しかなかったときてはほとんど無意味な発表。
遅ればせにMicroSoft FrontPage2000にてHP制作を開始、作品を掲載する。しかし自作の愚かさに嘆きもする。特に性交渉場面のワンパターンや状況設定のありきたりさには我ながら馬鹿げていると思う。 実行為経験の乏しさが如実に現れている。
5月、「HOOPS!!無料レンタルサーバ」に登録、HPをアップロード開始。4つのフレームそれぞれに広告がくっついてくるのが何ともいえず通俗的になってよい。一見広告まみれに見えるのも現実を象徴している。カウンターも取得する。サーチエンジン登録はしばらくしないでおく。
オナニー激減。記憶力、妄想力も衰える。同時に惚けの前兆が発現する。
6月、さすがに4つのフレームには我ながら嫌気がさし、単純なトップページに変更する。カウンターもまったく上がらずほとんど自分の見た回数のみである。自己満足にも程がある。
15歳から書き続けている日記を公開し始める。まず日記を書き始めた15歳の秋から。気恥ずかしいながら作家なら自分をさらけ出すことが肝要である。
しかし、この日記の公開にはとてつもない時間と労力とリスクが必要と遅まきながらわかる。また、必ずしも年代順に公開しなくとも受けるところからやればよいと考える。つまり、恋愛、セックスがらみの部分である。それには相当の時を下らねばならないのが情けない。
日記のアップは容易に進まない。完全なものはおそらく不可能であろう。下手なコラージュをしているページを適当にスキャンしてアップする。
7月、MXで溜め込んだエロ画像をGIFアニメーションにしていくつかのページの末尾に挿入する。やってみると面白いが、今ごろGIFアニメとはやはり相当遅れている。
笠木忍というAV女優に関心を抱き、エッセイを書く。→「笠木忍」という女子
MXで落とした彼女のAVキャプチャ画像100枚セットというのをGIFアニメにして一瞬アップロードした後すぐに中止した。あまりにも無残な映像だからである。否、AVの世界にはさらに悲惨な状況があると想像せられるが、見るに耐えない。
7月にはもう1本、エッセイ「あの頃は下着姿に欲情していた」を書く。女子の下着姿への憧憬、欲情と映画における下着場面の不備を2本の名作をネタにして記す。カットとしてエロ画像も混ぜる。このHP作りはしばらくして倦怠を感じ中止する。
平成15年(2003)(48歳)職場から馬鹿男がいなくなって欣喜雀躍
8月 この2年前に仕事先にて身近になっていた一人の馬鹿男が契約切れでいなくなる。この数年で特筆すべき好事であった。職業柄コンピュータ全般には詳しいがそれ以外には何の取り得もない馬鹿であった。私はコンピュータをもっと知りたくて半年間はよく話したが、以後その中身の薄さに気づくと毎日が苦痛であった。何も頼まれないと一日中腕組みをして机に向かっているという恐るべきたわけ者であった。2年の契約も長すぎた無能さであった。このような馬鹿男を初めて知ったと同時に、やがて身近にも馬鹿が大勢いたり、私の過去に知った者もほとんどが馬鹿であったのを思い返して愕然とした。人生の馬鹿がテーマの一つとなる。
平成16年(2004)(49歳)ネット上での活動再開
2月 誕生日の直後に「日記レンタルさるさる」で日記を開始する。本当の日記は既に断続的となっており、この1月中旬を最後に中断した。あまりにも悲惨な現実生活に疲れていたせいもある。
レンタル日記ははじめ別の名前(歯の浮く日記)だったがその後霊感を得て「凡女美 Bon Jo Bi 汎女美 Hang Jo Bi」とする。
学びの心と利己主義者弾劾と妄想を中心に毎日書き続ける。日常生活の記録はほとんどない。まるで書くに値しないと思っているかのようであった。やがて性的妄想が中心となり、女子の股間への異常な執着が主題となる。やはりいまだにあの女への怨恨は消えていない。桧山洋子という架空の新入女子職員を媒介に性的妄想の翼を羽ばたかせ悪逆の限りを尽くす。といってもここでもやはり妄想力の限界を自覚する。実行為の豊かな者は妄想する必要がない。
3月 無料レンタルサーバ「インフォシーク(旧HOOPS!)」にて「汎女美 凡女美ホームページ」を開設。上記日記の文章を随時加筆修正、エッセイとしてアップする。バックアップしていた「骨石」HPも再アップし、この年譜も2年ぶりに加筆、継続する。
(以下は妄想)
2005年(50歳)極端に体力が落ちて床に伏すことが多くなる。
本格的に惚けが始まる。
2006年(51歳)完全に寝たきりになる。
完全に惚ける。
2008年(63歳)作品がわずかに注目される。
しかし本人はまったく理解不能(笑)。
2010年(65歳)老衰死。
墓碑銘「何者でもなかった者ここに眠る(笑)。」
墓は台東区の浅草寺にあるという(未確認。確認の後に画像をアップの予定)。